アイネ・クライネ・ナハトムジークは誰もが一度は耳にしたことのある曲で、タイトルは「小さな夜曲」という意味です。じつはもともと「迷曲」として紹介しようとしていたのは「音楽の冗談」です。様々な逸話に事欠かない作曲家ですが、本当のところどんな人物だったのか興味は尽きません。
ほぼ同時期に書かれたというこれらの作品。謎が謎を呼びます。
・アイネ・クライネ・ナハトムジーク
ごくまっとうな小編成の弦楽器による四楽章からなるかわいらしくも美しい作品です。交響曲のように稀有壮大ではありません(字、合ってますかね?)。むしろ心なごみます。
第一楽章:有名なメロディーですね。決して複雑なことをしているわけではないのですが聞き飽きるということがありません。最初の主題のリズムが随所で変形され曲は進行していきます。
第2楽章:これまた慈愛に満ちた曲。気持ちが天高く昇っていくような気持になります。
第3楽章:拍子のはっきりした単純な動きなんですが、モーツァルトが書くと深みを増してしまうのが不思議です。あらゆる天才がそうであるように彼も人一倍の努力家であったようです。
第四楽章:軽快なメロディーが小音量で始まります。しばらくは速いけれども静かな音楽が続きます。大胆な転調。音の層が増していく様子。決して威圧的にならずそのまま眠ってしまいそう。最後だけは少し盛り上がりを見せて曲を閉じます。
以前新聞の投書か何かで読んだのですが、自分の親族が喫茶店を出したと。店名を「アイネ・クライネ」と付けたらしいですが、投書の主は「マイネ・クライネ」と読んだようで、場所はどちらか忘れましたが、そちらの方言で大変な忌み言葉なのだそうです。「マイネ」は忘れましたが「クライネ」は確か「来られない」、つまりお客が来ないという意味になってしまうと。「小さな」というのも変な切り方ですが(「ナハトムジーク」で「夜の音楽」ですね)、あんまり気にすることでもないのになぁと思ったことだけは印象に残っています。
・「音楽の冗談」
なぜこんな曲を大作曲家のモーツァルトが、と思ってしまうかもしれません。しかも同じ時期に。三流作曲家や演奏家たちを揶揄した曲だとの説明を読んだことがありますが、何の必要(欲求)があって?と思わざるを得ません。
めちゃくちゃな曲を予想して聞くと裏切られます。現代の様々な音楽になれた私たちにとっては、それほど大きな違和感はないのです。ちょっと変かな?というくらい。しかし、当時の作曲法、言い換えれば流通(?)していた音楽から考えると常識外れの曲になっているのだそう。ただし、最後はめちゃくちゃになって終わります。TVで演奏後、楽団員に「気持ち悪くないですか?」とインタビュアーが尋ねたところ、「いや、これがモーツァルトだと思うと何ともないんですよね」と答えていたのが面白かったです。そんなものですかね。
ちょっとした気分転換やティータイムに聞いていただけるようなCDに絞って紹介してみたいと思います。
安いですね。ほかの誰とも違う。そこがアーノンクールの魅力かもしれません。
「ナハトムジーク」は最小編成で演奏しており、アンサンブル感を出そうとしているのでしょう。「冗談」の方にはベルリンフィルのメンバーが参加しています。
モダン楽器を使用した演奏です。指揮者なしで奏者たちが自由に楽しんで演奏に加わっている喜びが音に表れている、というのは販売元の評です。私はモダン楽器による演奏の方がピリオドよりも好きです。必ずしもその時代に鳴っていた音楽を再現する必要はないと思うのですが、いかがでしょうか?
タワレコの二枚目と同じだと思うのですが、あちらはタワレコ限定と書かれているので何かが違うのでしょう。軽さが際立つ楽しさがあると思います。
さて、モーツァルト自身によると、曲は一幅の絵のように全体が瞬間的に出来上がるのだそうです。時系列の芸術なのにそんなまさか、と思いますよね。「しかも私は容易にそれを忘れません」と述べ、あとはそれを楽譜に書き込んでいくだけなのだそうです。とはいえ、天才には天才の苦悩があったはず。難しい道と易しい道があったら、難しい道を選ぶのが天才なんだそうです。一切の無駄をそぎ落とし、こぼれ落ちて足りなくなった音もなく、充実した世界を私たちの前に繰り広げるモーツァルト。そしてまるでバランスをとるかのようにハチャメチャな私生活。彼の曲のほとんどが神妙な顔をして聞くようなものではないことに改めて気づかされます。
真面目・不真面目を超越した存在。それがモーツァルトなのではないでしょうか?
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